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2016.12月、岸和田の健老大学での講演内容

私は、大阪市北区、JR天満駅の近くでカウンセリングとボディーワークを統合した整体院をやっている竹村と言います。

日々「心身一如(しんしんいちにょ)」心と身体は一体であるということを大切に、身体の不具合の改善をしています。

 

心に問題があれば、大抵身体にも問題が出ます。

またその逆、身体に病気などの問題があれば心も穏やかではいられません。

少し前までは、ストレスは、主に、胃潰瘍や十二指腸潰瘍等の、消化器官に問題を起こしていましたが、最近では、日常生活での運動不足と関連し「運動器官」に多くの問題が出ています。 

身体の不具合は、主に、怪我からくる傷の様な器質的な原因と、筋肉などのアンバランス等からくる機能的な原因の二つに分けられます

その後者、機能的な問題の「筋肉のアンバランス」には、身体の使い過ぎと使わなさすぎ、そして「精神的なストレス」が有ると考えます。

 

「精神的なストレス」は、自律神経を乱し、不必要に筋肉を緊張させます。

怒りは、「腹が立つ、はらわたが煮えくり返る」のごとく、お腹に緊張を生みます。

お腹に力が入り、お腹の筋肉、腹筋を固くするのです。

腹筋が硬くなると、血行不良や腰を中心とした動きに抵抗が生まれ、それが痛みにつながります。

肩こりも同じです。

怒りや不安で拳骨を握りしめると、腕から肩、首の筋肉が硬くなり、肩こり首こりにつながります。

「精神的なストレス」が腰痛や肩こりの原因になっているのです。

 

現代社会において、様々な「精神的なストレス」が有りますが、その中で多いものに「人間関係」から発生するストレスがあります。

私のところでも、来院者の多くのが「人間関係」にストレスを感じられています。

仕事場の上司や同僚、夫婦間の問題、介護をしている親との関係、子供や兄弟自分と他者との関係は様々な形で問題を持ち、そのすべてが簡単には解決できない物ばかりです。

 

中でも、自分自身と折り合えていない、自分の中にいるもう一人の自分に認められていない時、「もう一人の自分との人間関係」に大きなストレスを感じている方の問題は一筋縄では解決できません。

 

というのも、日頃、皆さんが一番よく会話している相手は誰でしょう?

仲の良い夫婦であれば、奥さんかご主人、両親や兄弟、姉妹の場合もあります。また、お子さんや、毎日の様に仕事帰り、一緒になる飲み友達?等々・・・

しかし圧倒的に、多く話しているのは、自問自答!「自分自身」なのです。

 ということで、今日は「もう一人の自分」についてお話したいと思います。

 

幼児が独り言を言いながら遊んでいるのを見たこと、有りませんか?

ぶつぶつ言いながら、会話になるかならないかの単語を羅列しながら、時には手に人形を持ったり、時には砂場でスコップを持っていたり、ブロック遊びだったりすることも有るでしょう。

この会話の相手を、心理学や精神医学では「イマジナリーフレンド」って言います。

イマジナリーフレンドとは、その本人にしか会話することのできない、目に見えない「空想の友達」のことです。

大抵、自分自身で生み出した友達なので、本人の都合のいいように振る舞う時もあれば、自問自答の相手として、本人に何らかの助言を行うことも有り、自己嫌悪の具現化として本人を傷つけることもあります。

ただ、イマジナリーフレンドの登場は、子供にとっては、思考の始まりで、発達の重要なプロセスだそうです。

 

言語が使えるようになるまでの記憶は、漠然とした映像やイメージで残しているとも考えられますが、医学的な研究では、うまく言葉が話せない3歳以前の事はほとんど覚えていないそうです。

私はカウンセリングの最中、クライアントが強いストレスを感じたと思ったとき

「今ふと頭に浮かぶ、できるだけあなたが小さな時の風景を思い浮かべて下さい」

と質問することが有ります。

小さな子供の時に受けた心に残る出来事を「心傷体験」と言います。

トラウマと言うほど大きな問題ではありませんが、その後のものの考え方などに影響を与えた出来事です。

それが強いストレスを生む思考に影響を与えているのです

今日のテーマの「もう一人の自分」は、統合失調症や人格障害なども病的な場合や、2重人格や多重人格などを言っているわけでは無く、あくまで、一般的な、健康な方のことをお話します。

 

日常生活で、私たちは多くのことを一瞬のうちに判断して行動しています。

目覚めると、トイレに行き、顔を洗い、新聞を読む、人それぞれ習慣は違いますが、ほとんど毎日同じ事を迷うことなく始めます。

ただ、程度の差は有れ、『判断に時間がかかる』事もあります。

買い物に出かける時、

「お昼をデパートで食べるには、何時に家を出ないといけないかな?」

という簡単なことから

「友達に食事に誘われたが、どうも気乗りしないので行きたくないが、どうしようかな?」

と、少し難しいものや

「この会社にいても将来が見えない、転職した方がいいかな?」

と、人生の大問題など、

すぐの答えが出るものもあれば、延々、堂々巡りを続けてしまうほどの難問もあり、そのたび私たちは自問自答しています。

 

この様な、中々答えを出すことの出来ない状態、心の深層から表面に出ようとするものと、それを抑えつけようとするものとの戦いを精神分析心理学者のフロイトが初めて「葛藤」と名付けました。

 

また、立場の違う心理学者のアドラー(19701935)の、個人心理学では、葛藤のことを、「決断の先延ばし」と言っています。

「あえて決断しないことを選んでいる状態」

「自分にとって都合のいい状態」

「人には無限の選択の自由はないけれど、選ぶ自由はある」

と、こちらは中々手厳しいですね。

 

以前、父親が最晩年に「家で死にたい、家に連れて帰ってほしい」と言ったにもかかわらず、

「認知症が進んできた母親と二人暮らしの家に、介護が必要な父親を連れて帰ることが出来ないから」

と、そうしなかった娘さんが、

「仕方が無かった」と、いう考えと

「そんな大変なこと私には到底出来なかったから連れて帰らなかった。でも、もう少し自分がしっかりした人間やったら、連れて帰れたのに」

と自分を責める考え、

彼女は

「いまさら考えても仕方が無いのが分かっているけど、後悔の気持ちが消えません」

と悩み、今も、彼女はもう一人の自分との自問自答、堂々巡りを続けています。

 

しかし、同じような経験をした人でも

「後悔先に立たず、仕方が無かった。私には完璧は無理」って割り切っている人も居られます。

 

以前、法事の席で、お寺さんが言っていました。

「亡くなった人に対しての後悔というのは少なからずどなたでもお持ちです。ただ、後悔はその人のことを忘れない為に有るようなもので、どうぞ後悔してください」って、

考えようですね。

 

先日TVで、奈良の興福寺の管主、多川俊映氏のインタビューが有り「菜根譚」の解説の中「唯識」

について話されていました。

 

唯識とは、「唯だ心だけが存在する」ということで、270350初期大乗仏教が唱える

「自分を含めこの世のすべては自分たちの認識を表したもので、それ以外実存しない。

自分たちが認識している世界は、それぞれの認識の範疇にあり、一方、それぞれの認識の外にあるものは、知ることができないので、『世界とはそれぞれが認識している世界』にほかならない」

という考えだそうです。

 

言い換えれば、それぞれが同じ様に思っている世界も、それぞれの見方次第で、どうにでもなる。

自分がどう見るかで、そのものは変わるし、同じ景色を見ていても、人それぞれの見方でそれは異なり、

同じ考え心でなければ同じ世界を見る事が出来ない。

ということは、「同じ世界を見ている人はいない」ってことなのでしょうか?

 

理解が足らないかもしれませんが、大きくは外れていないように思います。

 

西洋の哲学に、同じような考えの「現象学」が有ります。

簡単に言うと「客観的世界を信じない、人それぞれ『世界』が違う」

という考えです。

 

ガリレオが望遠鏡を使って地動説を証明し、それが一般的に常識となったころから、人が肉眼で見ている世界(天動説的世界)は偽物の世界ではないのかという疑いが生まれ、

「客観世界の存在そのものが疑わしいではないか?我々が観ている世界の「存在」そのものを立証することはできるのか?そんなことは不可能だ。だからその存在を前提にして哲学(学問)する態度はいいかげんだ。」

「ならばどうすればいいのか?」

「まず我々が観ている世界はただの感覚データにすぎず、情報の海のようなもので、その情報で、我々は、思い込みの世界を主観的に構成しているだけなのだ。なぜそんな思い込みをしてしまったのか、その条件を探ろう!このような感覚データがあったから、私は世界をこのようなものと思い込んだのだ」

 

と世界を整理するのが、フッサール(1859-1938)等、が唱えたのが現象学だそうです。

各人が自身の思い込んだ主観的な世界を見ているのが「世界、世間、世の中」で、客観的世界はない!


環世界、という考えがあります。

ヤーコプ・ヨハン・バロン・フォン・ユクスキュル(1864年―1944年ドイツの生物学者・哲学)が提唱した生物学の概念ですが

 

観測する者によって、「生きる上で必要な知覚情報」は異なり、 同じ時間や空間で、同じ対象を認識していても、心や脳に、それがどんな世界として映し出されるかも大きく違います。

 

 例えば、人は認識の大部分(一説には8割)を視覚情報に依存していますが、その眼には可視光線しか見えず、紫外線や赤外線の映し出す世界は見えていません。

 これに対し、ミツバチや蝶は紫外線が見えており、植物は彼らに蜜の場所を教えるため、花の中央部分には紫外線が見えないと識別できない模様が付いているとされています。

また、蛇には赤外線を感知できるものもおり、夜間での獲物の察知に優れています。

その他、犬は視覚では人間に劣る反面、より優れた聴覚と約100万倍の嗅覚があり、マダニは視覚と聴覚が存在しない反面、触覚、特に嗅覚と温度感知が優れており、ほ乳類の発する酪酸の匂いと、温血動物の体温にだけ反応するとされています。

 

世界を観測する感覚器の有無や差異は、動物によって千差万別にして一長一短です。

 なので、同じ世界や空間を共有していても、その様相は観測者たる動物の数だけ異なり、皆が自分にとって意味のあるもので塗り固めた幻想の世界で生きている。

 というのが『環世界』という概念であり、考え方です

 

アインシュタインが言っています

「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのことを言う」

 

にもかかわらず、誰もが、顔が人それぞれ違う事は即座にわかっても、見ている世界が違う事はすぐに忘れて、「こうすべき」と考えてしまうようです。

 

心理学者のアドラーは最晩年の記述で

「人は皆、自分自身の概念に合わせて経験し、問題を生じさていている。

この概念はたいてい本人も認識しないうちに備わり、そうした概念を元に人間は推論し結論を出しながら生き、やがて死んでいく。

中略

独自の前提と人生に対する概念や人生のライフスタイルを持つことは、個人心理学者も例外ではない。

しかし、この事実を認識しているといないでは大きな違いが生じる。」

と言っています。(現代に生きるアドラー心理学 一光社から)

 

簡単に言うと

「人は、人生において、自分がどう考えるかで物事を経験し、問題を生み、解決し生きている」

ことかと思います。

 

カウンセリングの現場で、問題を持つクライアントの多くは、自分の持つ概念、考え方で悩んでいます。

でも本人は、それが自分の個人的な考えで有ることに気が付いていません。

「それぞれの主観」に苦しんでいます。

そしてその話し相手は、いつももう一人の自分です。

時には、世の中の才能ある人々それぞれの業績をパッチワークのように張り付けた理想と、自分を比べ、もう一人の自分と自問自答しながら、自らにダメ出しをしています。

 

アメリカの社会心理学者のラザースフエルドは

「完璧を求めるノーマルな人と、完璧を求める不適合者との違いは、目標は決して完全に達成できないことを知っているかそうでないかである」

と言っています。

 

私が行うカウンセリングは、クライアント自身が自身の考えで自身を変えることを目標にしています。

自問自答するもう一人の自分を変える。

 

問題解決には、それが必要だと思っています。